人生の進め方 ~実相と観~

■仮相と実相
実相とは、すべての存在の真実の本質を指す核心的な概念であり、宇宙の究極の真理として位置づけられます。それは、現象世界を超えた不変の原理であり、すべての存在が依拠する根源的な実在です。実相は、時間や空間、因果の枠組みを超えて存在し、一切の二元性や相対性を超克する絶対的な真理として理解されます。

すべての現象は、固定的な実体を持ちません。これらは「因縁」という相互依存的な条件の連鎖によって生起します。(他の存在や条件との関係性の中で仮に成立しているにすぎません。)

因縁などの「縁起」の原理は、すべての存在が互いに依存し合い、単独では存立し得ないことを示しています。たとえば、一つの木は、種子、土壌、水、太陽光といった無数の条件が結びつくことで初めて「木」として現象します。このように、現象は一時的かつ相対的な存在であり、その本質は空(くう)、すなわち固有の実体を持っていません。

日常的な世界においては、物事は名前や形、概念といった仮の相(仮相)を持って現れます。仮相とは、われわれの認識や言語を通じて構築される現象の表層的な姿です。たとえば、「机」という概念は、木材、形、用途といった属性を基に名づけられ、認識されますが、その本質は単なる物質や機能の集合を超えて、因縁の網の目の中に位置づけられています。

仮相は、実相の真実を覆う一時的な仮面のようなものであり、人々の日常的な経験の為に成立する相対的な現実なのです。

しかし、仮相はあくまで仮の姿であり、究極的には実相に根ざしています。

実相は、現象の背後にある不変の真理であり、すべての存在がその本質において一体であることを示しています。この一体性は、仮相の多様性や分離性を超えて、すべての存在が相互に連関し、実相に帰一することを意味しています。

したがって、仮相を通じて現象世界を認識する私たちは、実相の真理に目覚めることで、存在の真の姿を洞察することができます。

さらに、実相と仮相の関係は、単なる二項対立ではなく、相互に補完し合う動的な関係であります。仮相は実相を顕現させるための媒体であり、実相は仮相にその存在の根拠を与えています。

実相は仮相を通じて顕れ、仮相は実相に依って成り立っています。このような両者の調和的な理解は、進化の中心的な役割を果たしています。

■智者の使命と実相の探求
智者は、朝夕を問わず、人々を真理へと導くことを無上の喜びとし、どんな苦労も厭わないものです。彼らは神々の流れを汲み、その源を遡り、香りをたどって根を探し求めています。すなわち、現象の背後に潜む実相を洞察し、その真理を体現することを目指します。

■To Clearにおける実践と智慧の深化
当サイト「To Clear」では、セッションと観想を通じて、自己の心にすべての現象が包含されていることを洞察する実践が行われます。この実践は、日々の鍛錬を通じて智慧を深め、観(真理を見極める直観力)を体得することを目的とします。

実相という広大な真理は、藍から青が抽出されるように、段階的に、しかし確実に学び進められます。

このプロセスは、自己の内なる実相を覚醒させる体験的な道です。実相は、すべての存在の根底にありながら、個々の現象を通じて顕現します。その真理を体得することは、自己と宇宙の合一を悟ることであり、進化の極致に到達する道でもあります。

■神知の付嘱と聖者の役割
神知、すなわち実相の真理を体現する智慧は、これまで21人の聖者に付嘱されてきました。これらの師たちは、すべて聖者であり、人々に多大な利益をもたらす存在です。

彼らは、進化の重要性とその功徳を体現し、神知を伝えることで、人類の霊的向上を促してきました。この功徳は、単なる個人の悟りや発展や繁栄にとどまらず、集団的な進化を加速させる力を持ちます。神々が神知を付嘱したのは、この無限の利益を世界に広めるためです。

従来の修行法、たとえば10年間の経典誦読、7年間の方等経の学習、90日間の坐禅といった長期間の修行は、確かに価値あるものだが、「To Clear」では、セッションと自己鍛錬を通じて、明晰な洞察と迅速な進捗を重視しています。このアプローチは、頭で考えるだけでは捉えきれない徳行の深みを、体験的に体得することを可能にする。最短最速で実相の真理に到達し、その果実を結ぶ道がここに開かれています。

■進化の独自性と法門の深遠さ
「To Clear」の法門は、世間の知るところではない。その独自性は、進化の道において比類なきものであり、その深遠さは、地を踏み天を戴いても測り知れないものです。この法門は、単なる精神性、霊性の実践を超え、存在の全体性を貫く普遍的な真理への道です。それは、現象と実相、有限と無限、個と全体を統合する智慧の体系であり、受講者はこの道を通じて、自己を超えた広大な実相に参入します。

■観の三種類とその実践
〜 観とは何か 〜
「観」とは、実相を内側から照らし出す直観力であり、すべての者に生まれながらに備わっている能力です。それは、現象の仮相を透かし見、実相の真理を直に体得する方法である。「To Clear」では個々の受講者の観に合わせた指導が行っており、人生の歩み方に即した実践が提供されます。

観は人によって異なり、その多様性こそが、進化の道の豊かさを示しています。

〜 三種類の観:漸次、不定、円頓 〜
観には、漸次、不定、円頓の三種類があり、いずれも実相を縁として成立しています。

漸次
 漸次は、階段を一歩ずつ登るように、浅い段階から深い段階へと進む観です。まず漏れのない智慧を育て、三界(欲界、色界、無色界)の苦しみを止めることを目指しながら、慈悲を学び、自己の成長にとどまらず、実相を学びの中心に据えます。この過程では、極端な見解(断見や常見)に偏らず、永遠不変の道に到達します。漸次は、体系的かつ段階的な進化を重視し、着実な歩みを求める者に適しています。

不定
 不定は、段階や順序に縛られない自由な観です。浅い学びと深い学びが交互に現れたり、進化の入り口はどこにあってもよいものです。上下左右、状況に応じて柔軟に進むことができ、個々の観の深さや表現方法も多様であります。不定は、固定された枠組みを超え、流動的かつ適応的な進化を求める者に適しています。

円頓
 円頓は、最初から実相を縁とする究極の観です。この段階では、すべての存在が実相そのものであり、真実でないものは存在しません。無明や煩悩は菩提と同等であり、生死は涅槃と一体であります。極端な見解や邪見は消滅し、世間も出世間も区別もありません。円頓は、始まりも終わりもない純粋な実相の世界を体現しています。それは、進化に必要な要素がすでに完全に備わっていることを自覚する者の歩みであり、空を自在に飛ぶがごとく、自由かつ即座に真理に到達します。

■進化の根底と五つの段階
〜 五つの段階:法、信、行、位、功徳 〜
進化の道は、以下の五つの段階を通じて、自己を荘厳とし、人々を救済する流れを形成します。


 法とは、ネガティブな要素(呪詛、魔性、煩悩、結業など)を超越し、実相における一体性を回復すること。これらの要素は、実相の光を曇らせる仮の障壁であり、それを除去することで、真理への道が開かれます。


 信とは、すべての現象が仮相であり、その本質が実相であると確信すること。否定も肯定も、清浄であり自在であると観じ、揺るぎない信念を確立します。この信は、現象の背後に潜む実相を信頼する力であり、進化の基盤となります。


 行とは、一心に実相に向かい、進化と光を求める実践です。極端な見解から離れ、無限の空に沈むことも、有限の世界に囚われることもなく、まっすぐに実相に参入します。この行は、動揺や迷いを排除し、真理への直進を可能します。


 位とは、菩薩の道の最初の段階に到達した瞬間、すでにすべての位に到達したとみなされる状態です。ここでは、観は段階的に獲得されるものではなく、最初から備わっていることを思い起こす。円頓の境地がここに顕現し、修行者はすべての存在と一体であることを自覚します。

功徳
 功徳とは、自己を荘厳とし、人々を救済する行為を通じて、進化の果実を結ぶこと。菩薩は、時と場所、事物を通じて自在に悟りの境地に入り、教えを説きます。この自在性は、太陽の光が全世界を照らすように、さまざまな形で人々に利益をもたらします。菩薩の行いは、太陽の光が朝、夕、夜半と異なる姿で現れるように、多様な形で人々を照らす。あらゆる場所、事物、瞬間を通じて、菩薩は実相の光を放ち、救済の力を発揮します。この自在性は、進化の極致であり、すべての存在が実相に根ざしていることを体現しているのです。

■人々の救済と光施の循環
〜 救済の意味 〜
人々を救済するとは、日常のあらゆる行為、「歩く、立つ、座る、寝る、話す、沈黙する、働く」を通じて、光を放ち、利益を循環させることであります。この「光施」は、縁ある者には目に見える光のごとく明らかであり、縁なき者には暗闇のごとく気づかれないのものです。

光施は、人から人へと波及し、自他を高め、進化を加速させる力を持ちます。初心の菩薩でさえこの救済が可能であり、中級、上級の菩薩に至っては、その功徳は計り知れません。

〜 光施の循環と進化 〜
光施は、現象世界における実相の顕現であり、個々の行為を通じて宇宙的な発展を創出します。それは、自己と他者の境界を超え、すべての存在を一体とする実相の力です。この循環は、進化の道を加速させ、個人の進化を集団的な向上へと拡大します。

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