泡の陽徳/花の陰徳

私たちが世に善をなすとき、それは陽徳と陰徳という二つの相に分かれます。陽徳とは、人目に触れ、人々の耳目を集める善行です。施しを誇り、造塔や供養を人前で成す。確かに果報は速やかに訪れ、目に見えるかたちで現れることも少なくありません。しかしその果報は浅く、やがては失われてしまうのです。なぜなら、その行為には「我が善を示す」という我執が忍び込み、その功徳はすでに世の称賛として支払われてしまうからです。

このような陽徳は、あたかも水面に浮かぶ泡のようなものです。陽の光を受けて一瞬きらめき、人目を惹きますが、すぐに弾けて消えてしまう。強く輝いても、長く続く灯とはならない。それが陽徳の限界です。

それに対して陰徳とは、誰に知られることもなく、静かに積まれていく善です。だれにも気づかれぬところで生まれ、だれの賞賛も浴びることなく消えてゆくように見える。しかしその消えゆくかに思える善こそ、実は消えずに深く、見えぬ層へと沈み込んでいくのです。

陰徳は、地中に落ちた一粒の種のようなものです。芽を出すのは遅いかもしれない。けれど、やがて根を張り、大樹となり、風雪に揺らぐことなく幾世にもわたり影を落とし、果実をもたらします。陰徳は花のように、どのような色や形に咲くのかはすぐには分かりません。けれど、一度枯れても次の種を残し、果報が絶えることなく連なっていく。その命の連鎖こそ、陰徳の深さを物語るのです。

陰徳の妙は、その無形性にあります。陽徳は人々の目に触れるがゆえに「報い」がすぐに消費されるのに対し、陰徳は誰の目にも映らないために報いが浪費されることなく、むしろ秘められたところで熟成していきます。それは深層に積もり積もって、未然の災厄を退け、思いもよらぬ縁を呼び寄せ、人生の基盤そのものを揺るぎなく整える。外に示さぬことこそが、陰徳の純粋さを守り、その効力を増していくのです。

陽徳は、果報を求めて行われた瞬間にその値打ちを減じてしまう。陰徳は、求められず、知られず、無心のままに積み重ねられるからこそ、真の力を宿す。泡のように儚い陽徳に比べ、陰徳は花のごとく時を越えて咲き続けるのです。

ゆえに私たちは、表に見える果報に囚われることなく、陰徳を静かに積むべきです。それは名を求めず、形を求めず、ただ徳そのものが自然に広がっていくあり方。目には見えず、時には自らすら忘れてしまうほどの善。しかしその忘れられた善こそが、もっとも確かに人生を支え、未来を変える力となるのです。には自らすら忘れてしまうほどの善。しかしその忘れられた善こそが、もっとも確かに人生を支え、未来を変える力となるのです。

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