
人間の深層にある本願は「苦しみを終わらせたい」という一点に尽きます。恋愛や金銭といった欲望も突き詰めれば、「孤独の苦しみを終わらせたい」「欠乏の苦しみを終わらせたい」という願いに行き着きます。
誰もが皆、苦しみを終わらせたい、そう願っています。
しかし、その願いをどうすれば成就できるのか、その道筋は多くの場合、明確には示されていません。いくら探しても、確かな答えには辿りつかないでしょう。
世の中に溢れる「スピリチュアル産業」は、そんな人々の渇きを利用して「恋愛成就」「金運上昇」「引き寄せ」など、泡(あぶく)のような言葉で誘いかけます。最近ではココナラのような場にも、数え切れないほどの意味不明な輩が次々と現れています。
そこに群がるのは、良い恋人に巡り会いたい、リッチになりたい、とにかく自分が幸せになりたいという、欲望と煩悩に塗れた迷える人々です。
しかし、そこに何の意味があるのでしょうか。
結局は何も改善されず、変わったように見えてもそれは幻想にすぎません。時間と心を浪費し、学びも智慧も得られず、人としての歩みを進めることもできない。
そうして人々は今世でも、来世でもほとんど学ばす、成長せず、霊性は未熟で赤ん坊のまま。乳を飲んでも飲んでも大きくならずに、ただ乳を欲しがり、もっと欲しいと泣き続ける乳飲み子のように。渇望は高まり続け、やがて老いて一度は諦めを覚えるものの、来世では再び同じ渇きを抱え込み、終わりなき欲望の循環に捕らわれていきます。
そこには「苦しみを終わらせる」という本願の方向性は一切ありません。
では、どうすればよいのか。
結論から言えば、苦しみを本当に終わらせるには、まず「輪廻」という枠そのものから抜け出す必要がある。ということです。
輪廻とは、満たしては欠け、得ては失い、また求める──この往復運動のことです。外側の出来事をいくら並べ替えても、枠の内側での配置換えに過ぎません。輪廻の中では、願いが叶うことはありません。 渇望に次ぐ渇望によって、満たされぬままに命は尽き、また次の生で同じ欲望を追い続けるのです。
大切なのは、枠の中身を磨くよりも、輪廻の枠から一歩、外に抜け出す。ことです。
抜け出すといっても、何かを断ち切るような激しい行為ではありません。
輪廻の枠から抜け出す歩み。これを菩薩道といいます。菩薩達と肩を並べて、歩みを進めていきます。
菩薩道を進む中で自然と、これまで追い求めてきた恋も富も健康も、すべてが正しい形で叶えられていくようになります。
なぜなら、輪廻の枠組みを抜け出した者には、必要なものが必要な時に与えられるからです。(これを不求自得といいます。)
そして、菩薩道を進む方々は如来へと至ります。人が本性として持つ如来蔵から無量の光を放ち、全てに完全に開かれた存在であります。もはや生死に縛られることなく、真如の大いなる世界を本拠とし、他の命を照らし導く働きを担う者です。そこに至ったとき、人はもはや「苦しみを終わらせたい」と願う必要すらなくなります。なぜなら、苦しみそのものが存在の中から消え去り、あらゆるものが無上の安らぎに転じていくからです。
この道のりは、急ぐものではありません。むしろ静かに、着実に歩んでいくものです。今ここからでも、誰もがその歩みを始めることができます。今日の選択が今世を変えるのです。
輪廻に翻弄される生を超え、やがて如来へと至る。
これこそ人生の果てない苦しみを終わらせて、真の自由を得る道なのです。