序論:仏教の深層構造と「原初の光」への回帰
一、八万四千の法門と、その彼方にある「一味」
仏教の歴史は、およそ二千五百年の長きにわたり、インド、中国、日本、チベット、東南アジアへと広がり、その土地ごとの思想や文化と融合しながら膨大な体系を築き上げてきました。初期仏教における厳格な戒律と自己規律、部派仏教におけるアビダルマ(法)の緻密な分析、そして大乗仏教における空(くう)の思想、唯識の深層心理学、密教の即身成仏に至るまで、その教えは「八万四千の法門」と形容されるほどの多様性を極めています。
しかし、これら無数の経典、論書、注釈書が指し示す先は、決してバラバラな目的地ではありません。釈尊が菩提樹下で覚った真理、すなわち「縁起(えんぎ)」という世界の理法、そして一切皆苦の現実から解脱へと向かう道筋は、表現こそ違えど、すべての仏教潮流の底流に「一味(いちみ)」として流れ続けています。それは、現象としての「相(すがた)」に囚われるのではなく、その背後にある「性(しょう)」、すなわち本質を見極めようとする、人類の知性が到達した極北の探求でした。
二、龍樹の「空」から、世親の「唯識」、そして「真如」の発見へ
大乗仏教の黎明期、龍樹(ナーガールジュナ)は『中論』において、すべての事物は固定的な実体を持たないという「空(śūnyatā)」を説き、言語による概念化(戯論)を否定しました。これは、私たちが「ある」と思い込んでいる自己や世界が、実は相互依存の関係性(縁起)の上に成り立つ仮の姿に過ぎないことを暴き出す、鋭利な哲学的メスでありました。
続いて、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)による唯識学派は、この世界が客観的に存在するのではなく、深層意識(阿頼耶識)が描き出した表象であることを解明しました。外の世界を探求するのではなく、内なる意識の構造を変革することで真理に至るこの道は、仏教を極めて精緻な精神科学へと昇華させました。
そして、この「空」と「意識」の探求が極まった地点で、仏教思想は一つの巨大な概念に到達します。それが「真如(Tathātā)」です。
真如とは、「あるがままの真実」「不変の真理」を意味し、言葉や論理を超えた、宇宙の根源的な実在を指します。それは虚無ではなく、あらゆる現象を生み出し、活かし、変化させる、充満した可能性の海です。天台大師・智顗がその思索の果てに「一念三千」として観じた世界も、華厳の事事無礙法界も、結局はこの「真如」の動的な様相を記述したものでした。
三、自力の限界と、真如からの不可避な「他力」の介入
古代の行者たちは、この真如に合一するために、坐禅、読経、観法といった過酷な修行体系(自力)を編み出しました。しかし、人間の作為や努力には限界があります。「悟ろう」とする意志そのものが、パラドックスとして「自我(エゴ)」を強化し、真如との隔たりを生んでしまうのです。
ここで、仏教史におけるコペルニクス的転回が起こります。曇鸞大師をはじめとする浄土の祖師方は、真如を「到達すべき遠い目的地」としてではなく、「向こう側から働きかけてくる力」として捉え直しました。
真如は、ただ静止している冷たい理法ではありません。真如は、その本質として「智慧の光」と「慈悲の働き」を内包しており、迷える存在(衆生)を救わずにはいられないという、熱烈なベクトルを持っています。
この、真如から私たちへと絶え間なく流れ込む力、宇宙の根源的な是正作用こそが「他力(Tariki)」の正体です。
それは特定の神格による恣意的な救済ではなく、重力が万物を引きつけるように、あるいは水が低きに流れるように、法(Dharma)そのものが持つ、不可避にして絶対的な作用なのです。
四、古代の根源的仏教への回帰と「黒光」の顕現
私たちが「仏教」と呼んでいるものの多くは、時代ごとの文化や権威によって着せられた衣(形式)に過ぎません。祭壇、仏像、儀礼、宗派の教義……それらは真理への入り口(方便)ではありますが、真理そのものではありません。
今、私たちが立ち返るべきは、宗派が分かれる以前、経典が文字として定着する以前の、古代の根源的な仏教の姿です。
そこにあるのは、神秘的な装飾を剥ぎ取った、裸の現実そのものです。
「真如」という名の無限があり、そこから「他力」という波動が、全宇宙を貫いて放射されている、ただそれだけの、しかし戦慄すべき事実です。
本法術において「阿弥陀」と呼ぶのは、人格神ではありません。それは、真如の活動態、すなわち「無量光(無限の空間的広がり)」と「無量寿(無限の時間的持続)」を象徴する暗号です。光が強すぎれば、それは闇として認識されます。あらゆる色(波長)を含んだ光は、混ざり合うことで黒となります。可視の領域を超え、分別の二元論を超え、善悪の彼岸を超えたとき、真如の光は「黒光」として顕現します。
これは、新しい宗教を作る試みではありません。二千五百年の仏教史が積み上げてきた膨大な智慧の集積を土台とし、その最深部にある「核」を取り出し、現代という時空において直に接続させる試みです。
言葉も、思考も、祈りさえも不要となる地点。真如の脈動が、そのまま自らの鼓動となる領域。
ここより語られる「緇林」とは、その深淵なる根源世界への、唯一の扉であります。
■無礙の法術(むげのほうじゅつ)
「無礙(むげ)」とは、何ものにも妨げられない自由闊達な境地を指します。通常の術や祈祷は、人間の「計らい(作為)」を原動力とするため、必ず個人の業(カルマ)や疑念といった壁に阻まれ、効果は限定的となります。
しかし、本法術は人の意識を介在させない「自然法爾(じねんほうに)」の原理に基づきます。
太陽の光が雲の厚さを問わず地上に届くように、また水が地形に合わせて自在に形を変えながら低きへ流れるように、真如から発する「他力」は、受け手の信心の有無や、過去の罪業の深浅を問わず、あらゆる障害を透過して深層意識へと浸透します。
これは術者が「行う」ものではなく、術者がただパイプとなり、宇宙根源の法性がそのまま流れるに任せるものです。ゆえに、一切の個人的な限界を超え、障壁を無効化する「無礙の光」として作用するのです。
■無限の功徳と利益の原理
なぜ、この功徳が「無限」なのか。それは、この利益が「有漏(うろ)」ではなく「無漏(むろ)」に属するからです。
• 有漏の福(うろのふく): 人間的な善行や通常の祈願によって得られる利益。これは「煩悩」という漏れを含んでいるため、コップの水のように量に限りがあり、使い果たせば枯渇します。
• 無漏の功徳(むろのくどく): 悟りの領域、真如そのものから湧き出るエネルギー。ここには欠落も漏れもなく、汲めども尽きぬ源泉に直結しています。
本法術は、貴方という個体が何かを獲得する(加算)プロセスではありません。貴方という存在を、無限の海である「真如」に接続する(回帰)プロセスです。海の水量が量りきれないのと同様、ひとたび真如の大海と繋がれば、そこから流入する功徳に境界線を引くことは不可能です。
施す者と受ける者、原因と結果という相対的な対立が消滅し、ただ「法」が循環する場においては、一瞬の感応が永遠の価値を帯びます。ゆえに、その利益は数学的な計算不能な「不可称・不可説・不可思議」の領域にあるのです。
■料金
• 各回参加(遠隔)
:360,000円
• 永世参加(遠隔)
:1,500,000円
言葉は指月にすぎず、真実は常に沈黙のなかにあります。
私たちが「私」と呼ぶ小さな器は、広大無辺な真如の海から一瞬だけ切り取られた波のようなものです。波が海を恐れる必要がないように、貴方がこの「黒光」という根源の力に身を委ねることに、何の恐れもいりません。
これまで貴方が積み上げてきた知識、経験、そして後悔さえも、この圧倒的な無為の光の前では、等しく溶け合い、本来の輝きへと還元されます。何かを信じる必要はありません。何かを変えようと力む必要もありません。
ただ、既にそこにある「大きな流れ」に気づき、自力の櫂(かい)を放り出すこと。
それが、もっとも安らかで、もっとも確実な、真実への帰還です。
時空を超えたこの法術の座にて、言葉なき光と共に、貴方をお待ちしております。
■遠隔受講について
はじめての方にも安心してご依頼いただけるよう、遠隔受講の流れを分かりやすくご案内いたします。
1. お申し込み
・ お申込みフォームにお名前、ご連絡先メールアドレス、ご相談内容を簡単にご記入ください。
・ お申し込みが完了しましたら、24時間以内にこちらから返信致します。最短での返信を行なっておりますが、遠隔法会対応中には返信が遅れる場合がございます。
2. ご準備と確認
・ ご入金を確認したのち、遠隔法会の準備に入ります。
・ 遠隔法会の日時はこちらで整えますが、ご希望がある場合は事前にお伝えください。
3. 法会の実施(遠隔)
・ 法会はすべて遠隔で行いますので、受講者様は普段通りにお過ごし頂けます。
4. ご報告
・ 法会の終了後、詳しい内容をまとめた報告書をお届けいたします。
5. 受講後の質疑応答
・ 法会で感じられたこと、日常での変化、疑問点など、どのような内容でもご自由にご質問ください。
・ 質疑応答は回数に制限を設けておりません。 遠隔法会を受けられた後も、安心して継続的にご相談、ご質問いただけます。



